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米国調査団の撮影 人生を変えることになる1枚 原爆を背負って(13) - 西日本新聞

 1946年1月31日、6人部屋の私の部屋に米兵が大きな機材を持って入ってきました。寝ていたベッドは通路のすぐそば。病棟の渡り廊下から電柱に登り、銅線を電線につないで引っ張ってきているのが見えた。銅線を機材につなぐと煌々(こうこう)とライトがつきました。家庭用のコンセントが普及していない時代、電源を直接電柱から取っていたのです。

 米兵はうつぶせで横たわる私の背中の映像を撮影していました。このとき回していたのはカラーフィルム。今と違ってカメラの感度が低いため、撮影には大量の光が必要でした。真冬の寒いときでしたが、裸にされても寒くありませんでした。このときの自分の姿を見るのは、25年ほど後になります。背中を真っ赤な血で染め、苦痛に顔をゆがめる少年の映像と写真は、私の人生を変えることになる。まだまだ先の話です。

 米国戦略爆撃調査団は、爆撃の効果を調べるために長崎、広島でカラー映像を記録しています。ペニシリンなどの薬の提供をだしに、被爆者の撮影を迫ったそうです。当時の大村海軍病院の院長が「どうせなら一番ひどい者を撮らせろ」と、私のほかに2、3人を撮らせました。その一人が、世界に知られた被爆者で、今年7月に82歳で亡くなった山口仙二さんです。フィルムには、ベッドに腰掛け、赤々とした顔と体の仙二さんが写っています。

米軍がこのとき撮影した映像は、後に私の人生を大きく変えることになりました

 爆心地から1・1キロの三菱兵器製作所大橋工場で動員中に被爆した仙二さんは、上半身に大やけどを負いました。被爆直後に大村海軍病院に入院、46年3月に退院しています。米軍が撮影に来たころは、仙二さんは同じく入院していた吉田勝二さん(2010年に78歳で死去)らと一緒に病棟を走り回っていた。生死の境をさまよっていた私は、ばたばたという足音や笑い声をうらやましく聞いていたのです。

 仙二さんたちとは7年以上たった後、再会することになります。身動き一つ取れなかった私にはあのときの足音の主が誰だか分かりませんでしたから、初対面と思っていた。でも、彼らは私を知っていたのです。うつぶせのままうんうんうなっていたし、じいさんが付きっきりだったから珍しかったのでしょうね。

 私が被爆者運動に入っていったのは、仙二さんに誘われたのがきっかけでした。(聞き手 久知邦)

◆   ◆   ◆ 

 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募っています。クラウドファンディングへの参加はこちらから

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July 20, 2020 at 09:02AM
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