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人生を決めた母の死 福岡から長崎へ転居 原爆を背負って(2) - 西日本新聞

 春は色とりどりの花で彩られる福岡市東区の国営海の中道海浜公園。近くには水族館があり、観光客でにぎわいます。私が生まれたのはすぐ近くの旧粕屋郡志賀島村西戸崎。1929年1月26日、列車の機関士をしていた父高森定道と、母キクの3番目の子として生を受けました。稜曄(すみてる)という名は、「光が届かない隅々まで照らす」という意味を込めて父が付けてくれました。

 1年半後に母が亡くなったとき、私の人生が決まってしまいました。父は長崎の母の実家に兄と姉、私を預けて、旧満州(現中国東北部)に渡り、南満州鉄道に入ってしまったのです。

 祖母谷口タガの家は長崎市の稲佐山の中腹にありました。畑に囲まれた一軒家。兄と山を走り回り、とりもちでメジロを捕って遊びました。

自宅近くの神社前でタガばあさんと姉、兄と一緒に写る3歳ごろの私(右端)

 タガばあさんには同居人がいました。被爆後、私を付きっきりで看病してくれた作太郎じいさんです。定職に就かないじいさんと私たちを養うために、ばあさんはよく働きました。畑を耕して野菜を育て、町ではふん尿のくみ取り。反物を作るための蚕や精肉店に売る鶏、大学の研究材料のモルモットも飼っていました。ばあさんは勝ち気だったけれど、人に親切でね。作った野菜も家で食べる以外は、近所に配っていました。

 動物への餌やりが私の日課でした。毎朝、長崎港を見下ろしながら300段の階段を下り、豆腐店で餌のおからをもらってくる。朝日尋常小学校から帰れば、その辺の草を刈って、鶏にやっていました。

 幼いころ私は怖がりでした。ばあさんに留守番を頼まれたのですが、誰か来たら恐ろしいと思って庭の柿の木に登って隠れていました。木の上の私を見つけたばあさんは怒った。「それで留守番になるか」と竹で下から突いてくるので、上に上に逃げた思い出があります。

 半面、かたくななところもありました。学校でいたずらをして、先生に運動場の端に立たされたことがありました。先生は立たせたことを忘れて帰ってしまってね。夜になって気付いた校務員さんが帰るように言ったけど、私は動かなかった。先生に命じられて立っていたのだから。慌てて学校に戻ってきた先生は「すまんやった」と謝りました。我慢強いというか頑固というか…。今も通じる私の性格だと思います。(聞き手 久知邦)

◆   ◆   ◆ 

 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募っています。クラウドファンディングへの参加はこちらから

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