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人生の中の15分|美しい暮らし|矢吹透 - gentosha.jp

1984年、僕は慶應義塾高等学校を卒業し、慶應義塾大学経済学部へと進む。

特に、経済学に興味があったわけではない。塾高で一番成績のいい生徒は、医学部へと進む。その下のクラスでは、文系の学生であれば、経済学部が人気だった。経済学部は、就職の際、選択肢も多く、一番有利であると考えられていた。

 

僕の場合、自分の適性や興味について、きちんと考慮していたら、文学部に進むのが順当だったはずだと、今となっては思うのだが、当時、内部進学者の男子で、文学部へ進む人間はほとんどいなかった。文学部に進んだ男子学生は、就職先が限定されるというイメージがなんとなくあった。

ゲイである、という生来のデメリット(と当時は考えていた)を抱えている自分はおそらく、就職に際して困難に直面すると僕は予見していた。

例えば、商社などに就職した場合、結婚していない人間には、海外赴任のチャンスが与えられないと言われていた。他の業種でも、未婚の人間は、管理職のポストを与えられず、出世しないというのが、通説であった。

男は結婚して一人前、という考え方や文化が、昭和のその頃には、今よりも圧倒的に強くあった。

自分が一生、結婚したいと思うような女性と巡り会うことはないだろうことが、僕には既に、よくわかっていた。

そんな自らの事情や社会の状況に鑑み、就職という、やがて目の前に立ちはだかるであろう、大きな壁を予想して、僕は少しでも、自分にとって有利な選択をしておきたかった。


高校時代、僕は部活に参加していなかった。スポーツは不得手であったし、文系のクラブで、興味を抱くような部も、特にはなかった。

僕は、授業が終わると真っ直ぐに帰る生徒の1人で、「帰宅部」と呼ばれていた。

大学へ進んでも、部活にも、サークル活動にも、興味を持てなかった。

当時、サークル活動といえば、夏はテニス、冬はスキー、そして、活動のハイライトはコンパ、というようなグループが人気だった。僕は、テニスは苦手で、スキーに至っては、それまでの人生で一度も経験したことがなかった。加えて、女子学生とのコンパにも興味があるはずもなかった。

部活やサークルに属していなくても、高校から持ち上がりで進学したため、塾内で友人や知り合いには事欠かなかった。授業や試験の有用な情報や、サボった授業のノートのコピーも、周囲の誰かがゲットして来てくれた。

中学の時に通っていた進学塾からの誘いで、中学生に勉強を教える家庭教師のバイトを細々とこなす以外は、のんべんだらりと僕は過ごした。

映画とテレビが好きだった。

授業をサボっては、二番館や三番館と呼ばれていた場末のリバイバル映画館に通って、古い2本立てや3本立ての映画を見て、一日を潰した。

勉強はしなかった。内部進学者の情報網を駆使して、Aの評価をくれるという噂の教授の授業を重点的に履修していたし、試験の時には、真面目で優秀な誰かの完璧なノートのコピーや、試験のヤマの重点メモなどが回ってきたので、いつも一夜漬けでそれなりにクリアできた。

手元に残っている、僕の卒業判定書を見ると、僕は大学の四年間に52科目を履修して、29科目でA評価を受けている。大学は、入学さえ出来たら、四年間遊ぶところ、という考え方の強かった、当時の大学生の中にあっては、このAの数は多い方だと思う。

しかし、これは実体のないA評価がほとんどで、僕は大学生活で、学業に関しては、何も身に付けなかった。

部活やサークルに所属せず、勉強もせずに過ごした怠惰な日々のツケを、僕は大学の三年に進学する際に支払うことになる。

慶應の経済学部生は、大学一年と二年は日吉にある校舎に通い、三年・四年は三田校舎に通う。

三田校舎に通い始めるタイミングで、学生たちはゼミに所属し、卒業のタイミングで、卒業論文を書く。

それぞれのゼミは、それぞれのやり方で受講生の審査を行っていた。大抵のゼミは、志望学生に、面接と筆記の試験を課していた。

僕は、経済学に1ミリの興味もなかったし、勉強もしていなかったので、自分が一体、経済学のどの分野に関心があるのかという、もっとも基本的なことすら、把握していなかった。

あまりにも無知蒙昧で、志望するゼミの選びようもなかった僕は、その愚かさを上塗りするかのように、最悪の選択をする。当時、塾内で一番有名で、就職にも有利だと言われていた、とある教授のゼミを志望するという暴挙に出たのである。

今、考えてみれば当たり前なのだが、そんなゼミの審査は競争率もレベルも高い。

脳天気で、身の程知らずな僕は、当然のことながら、あえなく、そのゼミの試験に不合格となった。

筆記試験の成績の酷さに加えて、面接試験で、日吉での二年間、部活にもサークルにも属さず、何をやって来たのですか?、と問われ、答えに窮したこともマイナス・ポイントにカウントされたはずである。

焦って、追加募集をしているゼミに手当たり次第に応募したが、時、既に遅く、最終的に、僕はどこのゼミにも受け入れて貰うことは出来なかった。

まったく愚かとしか言いようがないが、それは僕の人生最初で最大の、大きな挫折だった。

当時、慶應の経済学部では、卒業に当たり、卒論が必須ではなかった。必要な数の単位を取得すれば、ゼミの単位がなくても、卒業できた。

しかし、当然、親には叱られたし、心配もされた。

ゼミに属さず、卒論も書かない、というのは、大学生としては、一番大切な学業の課程をスルーする、ということである。

僕が一番気に病んでいた就職についても、ゼミなし・卒論なしは不利に働くということは、明白だった。

僕は、かなり凹んだ。

大学生活の残りの二年間、もう大学には、自分の居場所はないのだ、と思った。

何かしなくてはならない、何かを他に見つけなければならない、と鬱々とした中で考えた。

日々、不安や後悔に襲われ、出口の見えない状況の中で悶々とした挙げ句、後頭部に大きな円形脱毛を発症したことを、今となっては面白く思い出す。

そんな中で、僕は、行き場のない自分の葛藤、性的指向に悩む孤独などをモチーフに、一篇の中編小説を書く。

本屋で「公募ガイド」という雑誌を買って来て、締め切りが一番近く、文字数の規定に合う新人文学賞を探した。

講談社が主催する「小説現代新人賞」というコンテストが、その条件に一番合致していた。「小説現代」という雑誌は、読んだことも、手に取ったことすら、なかった。

僕は、その新人賞に応募し、2000人を越す応募者の中から、史上最年少での受賞を果たす。

僕はその時、一ヶ月後に21歳の誕生日を控え、まだ20歳だった。

ある日の夜中に、家に電話がかかって来て、受賞が決まりましたので、明日、講談社まで来て下さい、と言われた。

それからの日々は、ジェット・コースターのようだった。

「小説現代」の編集長が、同じ講談社の「ホットドッグ・プレス」という若者雑誌の編集長に、今度の受賞者は、現役の慶應ボーイでかっこいいんだよ、と飲み屋で話したことがきっかけで、「ホットドッグ・プレス」にエッセイの連載を始めることが決まる。

「ホットドッグ・プレス」は当時、60万部を越す発行部数を誇る、人気若者雑誌だった。

マガジンハウスの「ポパイ」の亜流ではあったが、マガジンハウスの雑誌にはない、よい意味での猥雑さや土臭さがあり、セックス特集などを積極的に組んで、「ポパイ」に勝る実売部数を叩き出すこともままあったと聞く。

「ホットドッグ・プレス」は連載スタートの記念として、僕が憧れていたニューヨークへの取材旅行をプレゼントしてくれた。

講談社のパブリシティの一環として、雑誌「フライデー」に写真記事が掲載されたりもした(今回の画像は、その写真と見出しの部分をスキャンしたものである)。

「小説現代」の編集者たちは、帝国ホテルでの授賞式の席で、「矢吹くん、次は直木賞だよ」と僕に言った。実際、五木寛之さんが、「小説現代」新人賞の受賞作で直木賞候補となり、その翌年には、次の小説で直木賞を獲っていた。

様々な雑誌から、取材や執筆の依頼が次々に舞い込んで来た。

雑誌「an an」の「いい男特集」に取り上げられたこともある。

伊勢丹のリクルート・スーツの新聞広告に出たこともある。

松任谷由実さんとの対談が組まれたりもした。


アンディ・ウォーホルが言っている。「人は誰でも、人生の中で15分間だけは、有名になることが出来る」

当時の僕は、まさにその15分間の中にいた。

<つづく>
 

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